お隣の国、北朝鮮の暴走が止まりません。本当に困ったことです。しかし事は北朝鮮だけに止まりません。
現在の日本は円安、株高が演出され、ちょっと気分的にも経済的にも高揚感が高まってきました。これ自体は喜ばしいことです。しかし、世界との関係を見ますと余り良い状況とはいえません。北朝鮮問題以外にも、中国との問題、東日本大震災後の原発停止による電力不足にも関わらず、世界から日本に輸入されるガス等の異常な高値。本来ならば大災害に合った国なのですから優遇があってもよいかもしれないのに、その価格はプレミア付の高さで買っています。経済というのは、「人の弱みに付け込んで儲けることもある」と言ってしまえばそれまでですが、どうもそれだけではないようです。
日本は近隣諸国や世界から嫌われているのでしょうか。今回はそんなところを未来創学論で考えて見たいと思います。何も「外交問題を論じよう!」などというものではなく、家庭内でも友人との間でも起こりうる「コミュニケーション・ギャップ」をスピリチュアルな視野で眺めて見たいと思います。日常にも大いに役立つところでしょう。
人間が生活をしてゆくために「絶対的」ともいえる条件が「コミュニケーション」です。これは「相手を理解する、自分を理解してもらう」という基本的なことを言葉、ジェスチャー、視線、オーラなどあらゆる手段を使って行います。何故、理解し、理解してもらうのかといえば、「人間は集団的動物ですから、一人では生きられない」という大原則があるからで、自分が何かをしたいときには誰かに手伝ってもらう必要があるでしょうし、他人のために役立たなければならないときもあるでしょう。自分がやりたいことを成し得るには、理解を得て、協力を得なければなりません。この時に相手の嫌がることばかりしていれば協力などは決して得られるはずもありませんし、自分だって嫌な相手に協力をすることはないでしょう。ですからコミュニケーションには「相互理解」が必要であり、協力を得るためには「我慢」も必要になってくるのです。
この「我慢」というのがなかなか厄介で、我慢を妨げる大きな要因が「自尊心」というこれまた厄介なしろものです。すなわち「プライドが許さない!」というやつです。また、この「プライド」は「我儘」と混同することでますます事を難しくしてしまうことがあります。
北朝鮮はアメリカを筆頭に、韓国、日本にさまざまな要求をしています。向こうには向こうの理屈もあるでしょうが、多くの国々はおおかた理不尽に感じることでしょう。対する西側は、以前からの北朝鮮の言動に対し、さまざまな制裁を加えています。また国連もその決議において経済制裁を強化するとしています。このように各国が「足並みを揃えて」北朝鮮に対し反省を促そうとしているのですが、当の北朝鮮はどこ吹く風で相変わらずです。それでは何故、北朝鮮にこれらの制裁が効きにくいのでしょうか。もちろん、経済制裁が長引いていますので、国内事情はなかなか厳しいものになっているでしょう。しかし、何よりも問題なのは制裁を加えるに当たって西側と北朝鮮では根本的に「価値観が違っている」ということが挙げられます。西側の当たり前は北朝鮮の非常識、そしてその逆もあるということです。
先程、西側が「足並みを揃えて」と書きましたが、実際は足並みも揃ってはいないのが原状です。各国は、北朝鮮の脅しには「決して屈しない」としています。これはテロが発生したときにもよく使われるフレーズですが、「決して屈しない」の後ろにある基本姿勢には、それぞれの国でまったく異なる理念があることを知っておく必要があります。考えてみましょう。米国は最終的に「戦争をすることが可能」な国です。それでは日本はどうでしょう。不可能です。この点において日米のスタンスはまったく違うものであり、同じ言葉としての「決して屈しない」であっても、米国は「お前には決して屈しないぞ!いざとなったら戦争だ!」という背景があり、日本の場合は「お前には決して屈しないぞ!いざとなったら………どうしようか!?」となります。韓国はどうでしょうか。戦争は可能ですが、北朝鮮とは同じ民族であり、親戚も数多く生活していますので、米国とは同じ戦争をするのでもニュアナンスが大きく異なります。このように各国の対応には根本的に大きな違いがあり、相手はその弱点を見透かしているともいえます。結構賢いです。
では各国がその対応の根本を同じくしたらどうなるでしょう。現実的には不可能ですが、各国がすべて「戦争」を容認したとしたら、この問題の解決はもっと早いでしょうし、もっと強硬な制裁も可能でしょう。逆に、現実的に考えるならば、各国が共同して戦争をすることは不可能ですし、都合が悪いからとさっさと殺し合いをするのは人間としてやりたくはありません。結局、解決の道は「話し合い」しか残されていないことがわかります。ならば、さっさと話し合いをすればよさそうなものですが、そこで登場するのがやっかいな「プライド」です。各国ともそれぞれの思惑がありますから、北朝鮮に屈したという屈辱は「プライドが許しません」。しかし冷静かつ単純に考えれば、「米国は我々(北朝鮮)の国力に完敗し、ついに屈した!」といわれたとしても、世界のどこの国がそれを信じるでしょう。ですが今は、それぞれが「どこでメンツを保つかの探りあい」というところで、実は無駄な時間の浪費をしているということです。
もう一つの外交問題として、日本は中国との関係悪化が起こっています。またもや隣国との問題です。領土ということを考えれば、韓国とも問題を抱えているといえるでしょう。ここでまたもや相手国が取り沙汰している事柄が靖国神社への議員の参拝です。今年は特に多く、168人の議員に閣僚も参拝しました。首相は「私人での参拝に問題はない」と言っていますし、閣僚ご本人も「外交問題になることはなにもない!」と豪語しております。しかしながら外交問題となっています。ここにもそれぞれの国の都合と思惑がありますから、ことは簡単ではありませんが、いくつか整理しなくてはならない点があります。まず議員の参拝に「私人」などというものは有り得ません。もし私人として参拝したいなら、議員をやめて、まさに「私人」となり行えば宜しいでしょう。また百歩譲って「個人の思想信条」とするならば、168名の議員の中の何人が、選挙で当選し議員となる前に参拝していたのか。そして今までも参拝をした議員の先生方のうち、何人が議員をおやめになってからも参拝を続けていらっしゃるのかの統計も知りたいものです。そして理由と思惑はどうあれ、すでに外交問題となっている今、170名ちかくの議員はこの問題に絶対的に責任を持つ必要があることがわかっているのか。即ち「根本的に外交責任に対する覚悟があるのか」ということです。168名と閣僚の今後の対応が見ものでしょう。
また、この問題を聞いている我々日本人にも注意しなくてはならない点があります。よくメディアでも「現在の日本のために礎になっていただいた英霊をお祀りしてある場所に参拝に行くのは日本人として誰もが認めるところ」という論調がありますが、皆さんはどのようにお考えになるでしょうか。あの神社はお墓ではありませんので、人々は葬られてはおりません。そして実際に戦死者の中でも無縁仏となっている遺骨が納められている「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」にお参りなさる方々はほとんどいないという現状。韓国の方々もお墓参りは大切にしている民族のようですが、何故、靖国問題に関してはここまで外交問題となるのか。ここでも「根本」を考えれば、自ずと外交に対する解決策は見えてくるはずです。 今回は外交を例に取り上げましたが、何も難しい政治論議が目的ではありません。物事はこのように、ちょっと視点を変えてみるだけで随分と違って見えるということを知っていただきたいのです。視点を変え、価値観を広げるだけで考え方も大きく違ってくるということです。またそれこそが未来創学アカデミーが主張するところでもあります。
このように、コミュニケーションにおいて物事の解決を邪魔している要因というのは、「間違ったプライド」と「根本姿勢」、そして「視野」です。人生においても、この3つをよく考え注意することによって、実はものすごくシンプルに物事が解決するということがある、ということです。そうすることによって「相手を理解し、相手も理解してくれる」というコミュニケーションの目的がスムーズに実行されることを知っておいていただきたいと思います。
今、世界が大きく動いています。古い世界の価値観から脱し、新しい価値観を学ぶことによって社会を変えてゆく原動力が生まれてくるのではないでしょうか。