☆物事の「基本」を考える(全編)


 蒸し暑い梅雨の時期に入り、もうすぐ日本の夏本番という時期になってまいりました。夏から秋といえば「祭り」の季節です。規模の大きなお祭りから、小規模のお祭りまで、日本にも多くの「祭り」があります。未来創学アカデミーの研修センターがある北軽井沢にも「夏の浅間高原祭り」というものがあり、お盆の時期の高原での楽しみの一つです。夏や秋祭りの時期には各地に多くの人が出掛けてゆき、大切な観光資源にもなっていますし、街の人々の楽しみにもなっていることでしょう。それぞれに趣向を凝らした祭りは心踊り、楽しいものです。

 人々は「祭り」を楽しみ、そこで多くの出逢いがあり、発見があり、わくわくします。祭りを楽しむという気持ちは誰でも同じでしょうが、いざ「祭り」の起源となるとあまり理解していないのが現実ではないでしょうか。

 「夏祭り」というと大体どなたでも思い浮かべるのが東北四大祭りでしょう。青森ねぷた祭り、秋田竿燈祭り、山形花笠祭り、仙台七夕祭り。夏の東北の風物詩です。青森や弘前の「ねぶた」の壮大な練り歩きは圧巻でしょう。祭りの起源はあいまいなことが多いようで、ねぶたも諸説あるようですが、定説となっているのは、江戸時代元禄期の後半(18世紀初頭以降)、七夕祭りの松明流しや精霊流し、眠り流し、盆灯籠などから変化して、華麗に発展してきた、というもののようです。語源は、眠り流し→ねむた流し→ねむた→ねぷた(ねぶた)と変化した説が有力なようです。暑さの厳しい、しかも農作業の激しい夏期に襲ってくる睡魔を追い払うための行事で、村中一丸となって、様々な災い、邪悪を水に流して村の外に送り出すものといわれています。仙台で有名な「七夕祭り」は中国に古くから伝わる牽牛・織女の伝説と、それから発達した乞巧奠(きっこうでん=女性の手芸上達を願う祭り)の行事に、日本古来の棚機津女(たなばたつめ=機を織る女性)の信仰が混ざり合って形成されたものとされています。ねぶたも七夕も共通点があり、どちらも「仕事をしっかりとやるための戒めの行事」ということのようです。

 西の地で見てみましょう。岐阜県にはすてきな風情を残す町がいくつもあります。先日私も訪れ、ヒーリング・スポットとしてもご紹介している飛騨高山市にも素晴らしい祭りがあります。「高山祭」です。山車に仕掛けられた「からくり人形」の舞を神社に奉納することでも有名です。この祭りは現在、春と秋に開催されていますが、その起源は、1652年頃からで、当時から鎮守様とされた高山城の山つづきに鎮座する日枝神社の氏子である人々によって神輿がかつがれ、それを高山城に入れたという記録もあるようで、当時の領主のための祭であったといわれています。すなわち領主の権勢と村を守る行事だったようです。また同じ岐阜県にある郡上八幡には盛大な盆踊り「郡上踊り」があります。江戸時代に城主が士農工商の融和を図るために、藩内の村々で踊られていた盆踊りを城下に集め、「盆の4日間は身分の隔てなく無礼講で踊るがよい。」と奨励したため年ごとに盛んになったもののようです。この二つは「治世」が色濃い祭りといえるでしょう。よくテレビでも報道される大阪府岸和田市の「だんじり祭り」は1703年、岸和田藩主が、京都伏見稲荷を城内に勧請し、五穀豊穣※を祈願し、行った稲荷祭がその始まりと伝えられています。当時は現在よりもずっとおとなしいお祭りだったようですが…。

 調べてゆくときりがないくらいいろいろなお祭りがありますが、その多くが豊穣祈願、権力維持、治世、そして苦しい仕事を乗り越えるための娯楽という面があったようです。私達が楽しんでいる「お祭り」にも、それぞれの時代の願いと思惑があったようです。

 楽しさだけではなく、その「基本」を見ると以外な別の面があり、それを知り、行事の「本質」を見極めることも大切なことだと思います。逆にいうと、物事には「基本」があり、それを達成するために手法があり、行事があるということです。

 

◆今の政治に「基本」はあるか◆

 

 このコラムが皆様のところに届く頃には、私達の生活に大きな影響を与える法案が「可決」されていることでしょう。「消費税増税法案」です。年収300万円位の世帯で年間約11万円の増税。2000万円くらいの方では約55万円の増税です。今、日本の政治は迷走を続けています。国内では「なにも決められない政治」といわれ、世界からは「ころころ指導者が変わる信用できない国」といわれます。それでは何故、このような信用の置けない「まつりごと」になってしまったのでしょうか。その大きな原因が「基本の欠如」だと思います。政治家が、そもそも「誰のために、何のために」という大前提である「基本」を疎かにするから問題なのです。一人ひとり政治家とお話をするとそれぞれが理想に燃えた方が多いと思います。しかしながら、人間の欠点でもある、集団に巻き込まれると集団の利益に従うという傾向が特に政治家には強く出がちです。少なくとも衆議院議員であれば4年に一回、選挙で当選しなければ失業を味わうという現実がありますから、無理もないかもしれません。しかし、それを踏まえ、その上で「国民のために政治を担う覚悟」がなければ政治家にはなって欲しくはありません。今回の消費税増税で現政権は大きな過ちを犯しました。それが「説明不足」です。野田総理は「十分に説明している!」としていますが、説明というのは「相手に理解されて」はじめて「説明」したといえるのです。現代では機械の取り扱い説明書でもそうですが、「一応責任逃れのために書いておく」という傾向が強すぎわかりにくくなっています。相手に理解してもらうという「基本」が抜け落ちていることが多過ぎるのではないかと思います。今回、この増税法案は民・自・公の賛成多数で衆議院を通過することになるでしょうが、実は民主と自民の増税の根本はまったく違っています。同じ10%増税という、表面では一致しているように見えますが、自民のそれは、原発を作りまくり、小泉政権で赤字国債を倍にし、世界最大の債務超過国としてしまった結果としての増税。民主の方はといえば、増税は4年間行わない!と公約し、政権をとったのはよいのですが、財源が見つからず苦慮しているところへ東日本大震災が起り、増税に突っ走らざるを得なくなった。どちらも五十歩百歩ですが、その根本は違っています。それが大連立!ですから、如何にも国民目線という「基本」が欠落しているかがわかります。民主党には、「国民が主体である」という基本があったなら低迷から抜け出せる転換点が2回あったと考えています。1回は野田総理です。国民の多くは国にお金がないことを冷静に理解しています。それが誰のせいだったにしろ、今までの政権を長いこと支えたのも自分達であることを理解しています。そして東日本大震災を目の当たりにして、国家予算が必要であることも理解しています。であるからこそ、政治家には徹底した身を切る、聖域なき「財政健全化」を求めているのです。野田首相は「政治生命をかける」前に、国民を納得させる発言をするべきでした。国民は別に首相に政治生命をかけてもらっても何とも思いません。次の人に変えればいいのですから。政治家はここを読み違えています。「首相の言葉は重いだろう」と考えているのでしょう。しかし、それは本当に首相に留まっていて欲しい人物の言葉だけです。「今、日本の置かれた状況を考えたとき、どうしても増税が必要である。であるから私は増税を行う。しかし、私に一年いただきたい。その間にあらゆる手立てを講じ、財政改革をやる。その結果を見て増税の賛否を決めて欲しい」と国民に説明し、発表するべきでした。そこに「政治生命」をかけてくれれば、我々国民は野田総理に拍手喝采を送ったことでしょう。実際このことは首相補佐官に提案いたしましたが、残念ながら聞き入れられることはありませんでした。

 そして、2度目の転換点は小沢議員です。確かに、言っていることに正当性はあります。「増税前にやることがあるだろう!」その通りです。しかし、小沢議員はここでも壊し屋の本領を発揮してしまったようです。現在、多くの国民は小沢新党を期待しているでしょうか。否でしょう。離党まで決意する信念があるならば、混乱を増長させずに「法案に賛成する。しかし、そうするために財政再建策を具体的に盛り込むこと」という主張をもっと以前に行うべきでした。両者、「時すでに遅し」です。

 基本の欠落はこれほど大きな問題を引き起こします。震災で投げ出された国民の生活はままならず、復興も道半ば。誰がこんな状況を喜び、進んで選挙などするのでしょうか。もし国政選挙が行われるようであれば、国民も政治家に対する「基本」を考えて行動しなければなりません。結果的にすべて我々が選んでいるのです。

 

◆あらゆる物事には「基本」がある◆


 最近オウム真理教の最後の逃亡犯が逮捕され、またまた話題になっています。しかしこれはオウムに限らず、あらゆる宗教団体に共通する問題をはらんでいます。宗教の根本は、「信じること」とされています。神は信ずるもの、仏は信ずるもの…。信じない者は救われない。信じない者は排除する。これは多かれ少なかれ宗教思想に共通する問題点です。オウムのように事件など起こさないと主張する団体も、かろうじて社会に溶け込み、理性を保っているのです。本来、キリストにしろ、釈迦にしろ、ムハンマドにしろ、開祖と呼ばれる人々は社会を憂い、人間を憂い、それを改革しようとし、「道」を探したのでしょう。その途上で得た「真理」と思われることを、それぞれの立場で説きました。彼らは自分を信じろとは決して言わなかったでしょう。自分を崇拝しろとは思っていなかったでしょう。何故なら開祖は誰かを崇拝していなかったし、自分を拝んだりもしていなかったからです。宗教の本質「基本」は、探求することだと考えます。信じるのではなく、学び探求するものです。そうなったとき、数千年の間、紛争の元となった宗教はやっと人々を導く手段と成り得るのかも知れません。 未来創学アカデミーの中に「心の五原則」というものがります。「他の人の生命の安全を脅かさない(他者感省)」「感情の起伏を安定させる(自己安定)」「生命存在の大前提たる惑星を傷つけない(生源保守)」「生存に対し建設的であれ(建設思考)」「素直な気持ちを持つ(宇宙感応)」。すべて人類が安定して平和に暮らしてゆくための、守るべき宇宙的原則です。一見するとどこにでもあるような言葉が並んでいるように思えるでしょう。しかし、これらが導きだされた「基本」には長い宇宙の知恵があります。これらも「信じる信じない」ではなく、「学び、理解しているかどうか」が問題であり、その原理を「知っている」と人生を創ってゆく上で大きな糧になり、指標となります。物事は表面だけ見ていると、見過ごしてしまうことだらけだということです。 今、「地球上では人類の進化の時代に入った」と多くのチャネラーが語り始めています。私もそのように感じています。このような流れの中では表面的、場当たり的な判断や、その場しのぎの決断ではすぐにメッキが剥がれ、馬脚が現れてゆく傾向が強くなります。基本を考え、それに基づいたやり方をすることが大切になるのです。 物事には「基本」があります。それを支える「訳」があるのです。表面だけを見るのではなく、物事に隠された「基本」を見極めることが重要になります。また、何事かを成すためには、基本を踏まえ、それにのっとり行動し、決断する。これがこれからの新しい時代に向かってゆく、私達人類にとって大切な考え方になるでしょう。